臥ヱ胤の巣窟の中で、その中枢となるものは、最下層の一番大きなスペースにある。地下運河から最寄りの大スペースでもあった。
中層とは違い、ここでは煙状の白い何かが中空をたゆたっていた。食料倉庫が近いためか、どこかひんやりした雰囲気がする。
この最下層に近づいていくにつれ、敵の数が少なくなっていたことから、既に主要な物資を逃がした後なのかもしれない。
それでも警戒しながら進入していくと、佐左エ門は目的の人物の姿を確認する。
「よく来たねぇ。時國」
人間の姿形をした妙齢の女性の声が響く。
「いや、よくもまあ顔を出せたもんだね、時國――の方が正しかったかの」
ほんの一瞬だけ、花崗岩のような顔をしてしまった時國であったが、すぐさま佐左エ門時國の仮面を被り直す。
「この広さにしては、荷の数が少ないようだが――」
禁猟指定種を取り扱っているという裏は取ってあるぞと、佐左エ門はかまをかけた。
「さあてね。ゲテモノ好きの当代当主がお買い上げになったのさ」
臥ヱ胤の女頭領――おあき――は嘘をつくことができる。正確には、嘘を口にすることができる。
「そうだ、そうだ。大井戸城天守閣宛てにまとめて送ったのさ。今頃、荷を乗せた船が向かってるよ」
彼女がこの大井戸幕府領内で平然と嘘をつけるのは、既に呪いが発現してしまっているからだ。幕府最大の統治機構――カッパ・フィールド――によって。
「これから幕府による水攻めが始まります。貴方だけでも――」
逃げましょうとは口に出来なかった。佐左エ門時國にはそれが出来ない。
「どこへ逃げようってんだい。今さら本島にしがみつくなとでも?」
「流刑地だろうが、外海だろうが何処へでも。拙者も伴に――」
心底、小馬鹿にしたような笑いがこだまする。
「こんな化け物みたいな姿になって、今さらどこへ行く?幕府領内なら食われる保障はないとでも?笑わせるんじゃあないよ」
女の口はここで終わらない。
「子供の頃からだけど、あんたのそういうところは本当に気に食わないねえ。好きにしたいなら、いっそ自慢の剣術でひと思いに私をやっちゃえばいいのさあ」
時國は黙る他なかった。真贋定からぬ虚実入り混じった会話に、並のカッパでは到底ついていけない。
化け物として生を全うすることに耐えられないという彼女の願いが本心であるならば――。時國が愛刀に手を掛けようとしたその時だった。望外からの小さな乱入者の声がした。
「ちょっと聞いていれば何なんだ。アンタは! 人間が化け物だなんて随分な言い方じゃないか!」
どこかで様子を伺っていたのか、不文津を背負った春人がずかずかと二人の間に割って入る。隠れて様子を伺おうという提案を反故にされた不文津は、春人の頭はペシペシ叩いていたが、そんなものはお構いなしとばかりに、妹はどこだ! 妹を返せ! と春人は女頭領に詰め寄る。
「まるで人間が化け物じゃないみたいな口ぶりだねえ。それに妹を探してるっていうなら的外れってもんさ。うちでカッパは取り扱ってないよ」
取り扱ってないというの嘘なのだが、女頭領はこの手のクレームをあしらうことに慣れているのか、薄い笑いを浮かべて相手の出方を伺う。
「探しているのは人間の妹に決まってるだろう、俺は人間なんだから――」
――その場にいた全員が凍る――春人ただ一人を除いて。
一同は全く同じことを考えていた。
――今、目の前で啖呵を切っているこのカッパの小僧は、嘘をついたはずだ。
――嘘を口にしたはずだ。
――その場で化け物になるはずなのだ。
幕府最大の統治機構――カッパ・フィールド――がそれを許さないはずだと。
一向に変化の兆しがみられないカッパの小僧を目の当たりにして、女頭領――おあき――は驚愕する。
幕府最大の統治機構――カッパ・フィールド――が発動しなかったことに、時國は驚愕する。
最初からおかしいおかしいと思ってたけど、嘘をつけるカッパとか大ビジネスチャンスやんけ! と、不文津は自らの垂らした涎の量に驚愕する。
三者三様、化け物を見るような目を向けられたことに関して、春人は心外だなとこぼす。
「ちょっと小狡くて、表情が読めないとこもあるけど、俺的にはカッパに好意的な印象を持ってたんだぜ。そこのおばさんはいいにしても。お前らはもう仲間のはずだろう」
この状況を正しく説明できるものは、ここにはいない。
ある者はカッパに戻る方法が本当に存在するのかもしれないと希望を抱き、ある者は今まで自身が信じてきた絶対的なものが崩壊した。ある者は禁猟指定種の密猟者がいますよと早々に通報しなくて良かったと安堵した。
頭上で地鳴りがする程の轟音が鳴り響く中、お尻に手を当てたカッパの小僧は叫ぶ。
「だから、妹はどこなんだ!!」